昭和五十六年五月一日 朝の御理解
御理解第七十八節 「商売をするなら買場、売場をというて元を仕込む所と、売り先とを大事にせよ。人が口銭を拾銭かけるものなら八銭かけよ。目先は弐銭損のようでも安う売れば數が売れるからやはりその方が得じゃ。身体はちびるものではないから働くがよい。」
「お商売は合楽理念を以てする他は無い」と合楽では申しますね。お商売をするなら合楽理念に基づくお商売、例えばここに売り場買場を大事にせよとか、十銭の物は八銭で売れとか目先は二銭損のようでも数が売れるからそれの方が得じゃという風に表現しておられます。もう全く合楽理念はそんなふうに説くわけですよね。売るでも買うでも、云うならば売り場買場の上にも、そういう生き方をさせて頂きますとそれこそ、目先二銭損のようであっても数が売れるという事だけじゃ無くて、その事が神様の御心に添いまつる教祖金光大神の教えられた事を実行する事になるんです。実験する事になるんです。だからそこには不思議な不思議な実証が表れてくるんですね。
先日、日田の方ですがそこにまいりますと、野菜とか食料品のお店ですけれども、合楽理念によるお店という看板が出ているそうです。もう本当にまあすぐ近所に二軒のスーパーマーケットですか、のようなのが出来てそん時にとてもこう、云うならばそういう店のはさみうちにあっておるような事ですから、もう止めるより他にないからと止めるお届けにみえた時に、私がこの御理解を聞いてもらったんです。
合楽理念に基づく云うなら商売というものが大資本の店が両脇にこう出来ておるけれども、合楽理念に基づく生き方をさせて貰うて人が喜ぶ、神様が喜んで下さるという事は、お客さんが喜んで下さるという事なんだからねえ。続けなさいと言うてそれから段々繁盛のおかげを頂いてお店もきれいになり、此の頃から裏に家を建てられました。その税金が六十万からかかって来ておった。そしたらその税務署の方がいろいろ話を聞いて下さって、そりゃ合法的にそりゃ払わんでもすむような風に出来ますよと言うてして下さったというお礼のお届けに見えました。ねえ、商売で儲かるとか儲からんとか言うだけではなくて、そういう不思議な働きが起きてくるんです。
そういう時分或る時にそれこそ商品がものを言う、乾物がものを言う、そういうまあタイプの方ですが、その乾物がね、或る時に私に話をしかけてきた。符丁を変えて呉れち、まあいくらいくらという符丁がついております。それを云うならば十銭のものを八銭で売れという事に気づかせて頂いて全部正札を変えた。そしてどういうわけに、そういうお知らせを頂いたかと思うたらその商品が又ものを言う。乾物が、こうやってね、こうやって値段をつけておくといつまあでんね、云うなら店ざらしになって、もうこんなに商品としては苦しい事はないて。安く売って貰えばね、それだけ早く云うならば人にも喜んで貰え云うなら食べて貰えるという事がその乾物のものの心なんだと。だからどうでも正札を替えて貰うて安う売ってもらうとそれだけ、いわゆる人間のお役に立つ事になるからそういう意味合いの話し合いが出来たというんですよ。だから本当にそうだと思うて商品を替え、そのおかげで両方のマーケットだかスーパーのようなものがあるけれども、おかげでますます高野さんち言いますが高野さんの商店は繁盛を続けておる。ただそれで商品の利益というようなもんじゃない。そりゃもうそこには不思議な不思議な働きがねあるんです。先達からも本当の事だけれども、嘘のような銀行関係の払う問題でしたけれども、おかげを受けて今度も税金の問題で不思議な働きを受けておるという事です。
教祖様の御教えをそりゃそうじゃろうけれども、十銭のものを八銭で売るという事はソロバンを取ったらまあ馬鹿らしいようだけれども、目先が売れるという事は目先目先だけの事ではない。目先には二銭損のようであってもという事は目先目先の信心ではいけない。まあ昔の商売人はよく言いましたね。損して得取れという。損して沢山得をするという事だけではなくて、他にです。不思議な不思議な神様の働きが起こってくるという事なんです。ですから信心はお互いが合楽理念の店と看板のかけられる位な内容の、云うなら信心、それは今日の御理解の内容でもあると思うです。どうでしょうか。
教えを守るという事はそこに本当に云うなら、何ち言うかね、身を捨てて浮かぶ背も有るというようにです。神様の教え通りという事は人情を使うたらとてもそんな事は出来んといったような事もありますけれども、そこを頂き抜いて行く信心。
昨日、一昨日でしたか伊万里から今、伊万里支部には毎朝、朝の御祈念に二十数名の朝参りがあるそうです。そして毎日御理解を頂いてちょっとの間でしょうけれども共励し合うて皆帰られる。皆おかげを頂いておる。昨日一昨日参って来た方も、まあ電気の仕事やら商売やらをしておられる。何々電気という、だから会楽でそのまあ商店名を新たに頂いたらもっとおかげを頂くだろうというのでまあ参ってみえた。神様へお願いさせて頂いたら、それ商店名は今のままでいいと、そして私が御神願に頂くのは十プラスという字を書いてしんにゅうを書く。そのしんにゅうも長く流すという風に頂くんです。これは私は或る方がそのまあ会社の不況の為に首切りがある。それでどうぞおかげを頂きますようにとお願いがあった時に、あの首という字を書いてこのしんにゅうを頂いた事があるんです。 だからもう大体は首になるのだけれども、それを流してやるという私はお知らせだと思うて、お願いをして今にまだ勤めておられます。もうこれは何年も前の事でしたけれども、その時その事を頂いておりましたから、首になるのを流して下さった。
私が昨日一昨日頂いたのは十(プラス)たすという字を頂いて、しんにゅうである。これは辻という字でしょう。何々の辻という。だからその方がお届けをされるのに、本当にあの伊万里支部の方へ毎朝朝参りをさせて頂くようになったら、もうお商売が云うなら面白いように商いが出来て有り難い。だから商店名でも神様から頂いたらもっとおかげ頂くだろうというような気持ちもあってお参りしてみえましたけれども、商売しとればそんなに売れた売れたという事ばっかりではない。十ばっかりではなくて一になるような事もあろうけれども、そういう時にお礼の言えれる信心、売れたからとお礼を言う時と同じように、いやもっと言うたらおかげで信心が出来ますというようなお礼も伴うてくるわけですけれども、神様の御都合にそれこそ降るもなければ照るもない。一切が有り難い、一切が神愛と分からせて頂くという事。昨日の御理解じゃないけど、私が何と言うても一番有り難い事は一切を神愛と受けられるという事だというお話しを聞いて頂きましたよね。そこには例えば降っても有り難いなら、照っても有り難いという。
昨日末永先生の壱岐の先生所の御大祭が昨日紀久男さんと錦也君と行ってましたが昨日帰って来ました。それであちらでは、御大祭たんびにおかげの泉と全く同じようなスタイルでこういう根賀似というのが大祭たんびに御自分のお話しをこれにまとめてまあ出しておられる。それを昨日持って来たのを昨日読んでもらいましたんですけれども、素晴らしい本当に全く合楽理念に基づく布教の姿勢、構えというものをこの中から感ずる事が出来る。もう兎に角合楽教会、合楽教会私の師匠がこうこう言うたと私の事を指してそういう風に表現しておられます。中にこの前の十六日の御大祭の時に御祈念の中にお祭り中に御神願を頂いた。それは神様の前に氷砂糖がいっぱいこうまあお供えがしてあるところであった。氷砂糖といいますね、あの氷のような砂糖。どういう事か分からんから熊本の富永先生に今日のお祭りの時にゃこんなじゃったがと、どういう事じゃろうかとまあ二人で練ったけれども分からなかった。そしたら先達の何かここの会の時に又ここで一緒になってから富永先生が、先生分かりましたよと、これは郷ノ浦教会のことだけではなく私の方も頂かにゃならん所でしょうけれども、凍結されるという事ですよと、云うなら財産の凍結なんか申しましょう。いわばあのそれこそ氷砂糖というのはまあ甘い物、云うならば甘いおかげばかりじゃない。売れた売れたというばっかりじゃない。むしろそれとは反対のようなおかげを凍結して下さるという意味ですバイ。だからここは本気で有り難く頂かにゃん所だろうと富永先生から聞いて、確かにそうだとまあ悟ったという意味の事を書いてあります。他にも書いてありますが。
そしてもう神様はいつも真心を求め給う。そしてそこから真の信心を分からせて下さろうとする、そして真のおかげを下さろうとして居るという事を書いておられます。
はあ合楽に参りゃほうらもう本当に売れた売れた、昨日一昨日でしたか、そこの久保山さんの御神米を差し上げられる方で、もう四、五日しか命がもてんという方が御神米で助かったという話を聞いて或る方がその今日は話を聞いてお金も持って来とらんばってん合楽の金光様にお願いして下さい。私の関係の癌があのう、ここで久保山さんにお願いすると癌が流れたという話を聞いたからお願いをして下さいと云ったような、ここには例えば参ってこんでも云うならばおかげの頂ける神様です。けどもこれは云うならば甘いおかげである。だから段々信心をさせて頂いておかげおかげで参っておるけれども、それから理解申して聞かせとおっしゃる御理解を頂くと例えば商売をする者ならば、云うならば今ここの御理解にありますようにそういう教祖様の御教えを守らなければいけない。
それをなら、分かりやすく合楽で言うと今日の御教えで云うならば、商売をするならば合楽理念を以てする他はないという事になるとですから、商売の上にも仕事の上にも合楽理念に基づく生き方というものを身につけなければおかげにならんという事。
身につける事は難しいようであるけれども、そこに降っても照っても有り難いという世界が開けてくるという事が、云わば合楽世界への云うなら、あれは何とか言いますね。柔らかい道という。あの三蔵法師が辿ったという道は何ち言ようたかの。シルクロード。シルクロードと言うのは楽な柔らかい絹のようなという意味だ、道だというそうですけれども、実際はなら三蔵法師が通ったそこにはさまざまな難儀な問題があって、それを事を成就するのでしょうが。それを信心で頂くとそこを皆楽しゅう愉快に柔らかい心で通り抜けて行けれる。簡単に言うけれども、道理が分かって道理が実証出来たら、言わばこれ程簡単な事はない。これ程有り難い事は無い。それこそ愉快にすらなれる手立てというものを神様は分かってくれと言うふうに御教え下さるのです。
私は何十年合楽で信心しとっても一生懸命参る、こん位の問題なら朝参りでんするならすぐおかげ頂きよったばってんというような体験を持った人が、その何十年信心しとるけれども、一つも信心にならないと言う人があるんです。ここはいっぱいあるんですよ。やっぱおかげおかげで合楽に通うてくる。教えはいっちょん身についちゃおらん。もうだんだん八十いくつでしょうから、もう本当淋しゅうして淋しゅうしてこたえんごたるふうなふうで、先日参って来てから、もうそれこそそげなこついうなら、のんぼり向いて唾吐くごたるこつじゃんのとこう言いたいような事でしたけれども、私はもうそれはそれなりにおかげ頂かにゃと思うてお届けさせて頂いたんですけれども、そういう信心になったんじゃでけんです。一生懸命参りゃおかげ頂いたという時代から、一生懸命参って一生懸命教えを行じ、一切を合楽理念に基づいての生き方という所から有り難うなり楽しゅうなり愉快になっていくような手立て。毎日大城の方から参ってみえる吉田さんという方、もう本当に置いたもんを取るような嬉しゅうして楽しゅうてこたえんような、言うならば信心修行か、修行もおかげを頂いておられた。ところが今度御本部参拝をさせてもらった。初めて御本部参拝させて頂いた。そしてお知らせを頂いたのが、山又山という事を頂いた。峠を越えたと思うたら又向こうに峠があったとこういうのである。もう本当に以来、それ以来というものは置いた物取るようじゃなくて、それとは反対の言うならばリズムが出て来ておるような感じ。この事が神様が求めておられた信心と思うて有り難うならせて頂いて、今毎日日参りが今お母さんと同道ですから御祈念の後に参ってみえます。それにはお母さんが毎日参ってみえて一番にここでお届けなさる事は、親先生この人は或る教会で長年信心した方だそうです。嫁の信心のおかげで合楽に御縁を頂いて有り難うございますと言うてあのう言われます。だからね又売れた売れたというおかげについてくるのなら、大した事ではなかです。それとは反対の事であっても、お母さんこげな有り難か事はなかという頂き方に感心してしまわれたのではないでしょうか。そしてお母さんが毎朝今云うならば、姑親と嫁さんが仲良うお参りして来る。そしてお届けはもう本当に有り難い、そこにきちっとしてその神様の一つのリズムを聞いておられる。リズムが生まれて来る。だから大変険しい事だけれども、それこそシルクロードである。柔らかい心でそこを通り抜ける事が出来るというのである。云うならば甘いおかげ、ただ願えばおかげになったというような信心が何十年続いても晩年は淋しゅうなってくる。
信心は一年一年有り難うなってくるというのじゃなからんとに、教えが身につかんなりに大きくおかげを頂いてきたのではいかん。それこそ十の事を有り難いけれども一(マイナス)になった時もやっぱり有り難いというならば、売れても売れなかっても神様にお願いをしてからの事であるから、お礼が言えれるような信心を目指さねばならないという事であります。
お商売をさせて頂いて合楽理念に基づいたから又売れた又売れたという事ばっかりではない。そしてそこには大変不思議な働きが起こって、目先二銭損のようであってもです。不思議な不思議な働きの中にお商売が出来る。
商売は合い楽理念を以てする他はないという事を、私は合楽の言葉で言うとそういう事をこの御理解には説いてあると思います。この内容を合楽理念では説くのです。いよいよ合楽理念に基づいたお商売、合楽理念に基づいた信心生活が出来なければね。云わばシルクロードの道にはならないという事です。
どうぞ。